統合失調症は、幻覚や妄想、まとまりのない会話や行動などを症状とする疾患で、人口の1%(100人に1人)の割合で発症すると言われています。
統合失調症は、医学が発展していない時代には原因が全く不明である謎の病気でした。どのように対処・治療すればよいのか全く分からなかったため、現在で考えれば意味のない治療が行われていたり、「とりあえず病院に閉じ込めておく」というような方法しかありませんでした。
しかし1950年頃、クロルプロマジン(商品名コントミン)というお薬が統合失調症を改善させる作用を持つことが偶然に発見され、ここから統合失調症の原因の糸口が見えるようになりました。クロルプロマジンの作用を良く調べるとドーパミンのはたらきをブロックする作用がある事が分かり、「脳のドーパミンが多くなりすぎると統合失調症になるのではないか」というドーパミン仮説が生まれたのです。
ドーパミン仮説は統合失調症の原因の1つとして現在でも有力な仮説であり、ドーパミン仮説のおかげで統合失調症の治療は大きく進歩しました。実際、統合失調症の治療薬は全て、このドーパミン仮説に基づいて作られています。
しかし統合失調症の症状をよく見てみると、ドーパミン仮説だけでは説明できないこともあり、ドーパミン仮説は正しい一方で、「不十分な仮説」だと考えられるようになってきました。そのため、最近では新しい仮説も提唱されるようになってきてきます。
その1つが1970年頃より提唱され始めた「グルタミン酸仮説」です。
今日は統合失調症の原因として注目されている、「グルタミン酸仮説」について説明します。
1.グルタミン酸仮説とは
グルタミン酸仮説とは、
「統合失調症はグルタミン酸のはたらきが弱まる事で生じるのではないか」
という仮説になります。
この仮説が生まれたのは、1970年頃です。
この頃、アメリカで「Angel Dust」という薬物の乱用が流行しました。Angel Dustの正体は「フェンサイクリジン(PCP)」という幻覚剤で、乱用した人は幻覚や妄想といった症状を呈し、これは統合失調症によく似た症状である事が注目されました。
PCP乱用者は、幻覚や妄想といった陽性症状だけではなく、無為自閉・感情平板化といった陰性症状も呈する事が多かったため、「PCP乱用で生じる症状と、統合失調症の症状は同じ機序で生じているのではないか?」「という事はPCPの作用機序が分かれば統合失調症の原因も分かるかもしれない」と考えられ、PCPの調査が進められました。
PCPの作用をよく調べてみたところ、グルタミン酸がくっつく部位であるNMDA受容体をブロックする作用がある事が分かりました。つまり、PCPはグルタミン酸のはたらきをブロックするはたらきを持つお薬だったのです。
という事は、統合失調症もグルタミン酸のはたらきがブロックされることで生じているのではないか、と考えられ、グルタミン酸仮説が生まれました。
それまで、統合失調症の仮説として有力であったのは「ドーパミン仮説」でした。ドーパミン仮説は「統合失調症は脳のドーパミンが過剰になることで生じる」という仮説であり、一定の根拠に基づいた仮説で多くの専門家から指示された仮説でした。しかしドーパミン仮説では説明できない統合失調症の症状もいくつかあったため、ドーパミン仮説は原因の1つではあるが原因の全てにはなりえない、と次第に考えられるようになっていました。
ドーパミン仮説は、統合失調症の陽性症状に対しては説明が付きやすい仮説です。統合失調症の治療薬でドーパミンをブロックすると幻覚や妄想といった陽性症状は確かに改善します。しかし、陰性症状や認知機能障害などのその他の症状に対してはドーパミン仮説では説明できない点が多いことが以前より指摘されていました。ドーパミンをお薬でブロックしても無為自閉・感情平板化といった陰性症状や認知機能障害は思うように改善しないことが多かったのです。
しかしグルタミン酸仮説は、陽性症状に対しても陰性症状に対しても説明がつく仮説であったため、ドーパミン仮説よりもより真の原因に近い仮説なのではないかと注目されています。
陽性症状というのは統合失調症の特徴的な症状の1つで、「本来はないものがあるように感じる症状」の総称です。「本来聞こえるはずのない声が聞こえる」といった幻聴や、「本来あるはずのない事をあると思う」妄想などが該当します。
陰性症状も、統合失調症の特徴的な症状の1つで、陽性症状とは逆に「本来はあるものがなくなってしまう」症状の総称です。無為自閉(=活動性が低下し、こもりがちになる)、感情鈍麻(=感情の表出が乏しくなる)などが挙げられます。
認知機能障害も統合失調症の症状の1つです。記憶・注意・判断力の低下、実行機能の低下などが代表的です。
2.ドーパミン仮説が正しい事を裏付ける根拠
「グルタミン酸のはたらきが弱まると統合失調症が発症する」というのがグルタミン酸仮説になります。
グルタミン酸仮説を支持する根拠としては次のようなものがあります。
Ⅰ.グルタミン酸をブロックするお薬で統合失調症のような症状が生じる
先ほども説明したように、グルタミン酸のはたらきをブロックするような薬物を健常者に投与すると、まるで統合失調症のような症状が出る事が確認されています。
フェンサイクリジン(PCP)の他、「ケタミン」という麻酔薬もNMDA受容体をブロックすることでグルタミン酸のはたらきをブロックする作用がありますが、ケタミンを健常者に投与するとPCPと同じように統合失調症様の症状が出ることがあります。
Ⅱ.グルタミン酸はてんかんを引き起こす
統合失調症の方は、てんかんを合併しにくいという事が古くから知られています。その理由ははっきりとは解明されていませんが、統合失調症の方がてんかんになりにくいのは事実です。
一方、動物実験において脳にグルタミン酸を散布するとけいれんが生じることが確認されています。という事はグルタミン酸が少ないとけいれんが起こりにくいと言えます。
ここから、統合失調症ではグルタミン酸が少ないから、てんかんが合併しにくく、けいれん発作も起こらないのではないかと考えることもでき、これはグルタミン酸仮説と矛盾しない考えになります。
Ⅲ.グルタミン酸を増やすお薬で統合失調症の改善が得られる
グルタミン酸仮説が正しいのであれば、グルタミン酸を作用を強めたりグルタミン酸を増やせば統合失調症の改善につながるはずです。
まだ研究段階ではありますが、グルタミン酸を増やすようなお薬を統合失調症の方に投与するという研究も進められています。
グルタミン酸を増やす物質としては、
・グリシン
・D-セリン
・D-サイクロセリン(抗結核薬として用いられている)
などがあります。
これらを用いることで統合失調症の症状が改善したという報告があります。
しかしこれらの物質は現時点では統合失調症の治療薬としては使用されてはいません。統合失調症の有力な治療薬になる可能性のある物質であることは間違いなく、治療薬としての研究が進められています。
Ⅳ.統合失調症患者さんでのグルタミン酸低下を報告した研究もある
グルタミン酸仮説が提唱されるようになってから、「では統合失調症の患者さんの脳のグルタミン酸は本当に減っているのか?」という確認が行われるようになりました。
とは言っても、実際の患者さんの脳の中を直接見ることはできません。
患者さんの脳脊髄液を採取し、そのグルタミン酸濃度を測定したり、亡くなった統合失調症患者さんの脳を解剖してグルタミン酸濃度を測定したりする方法が行われました。その結果、患者さんの脳脊髄液中のグルタミン酸濃度が低下していたという報告もあります。
4.ドーパミン仮説とグルタミン酸仮説の関係
統合失調症の原因として、もっとも有力な仮説は「ドーパミン仮説」です。
ドーパミン仮説は、「統合失調症は脳のドーパミンが増えすぎる事で生じる」という仮説で、1950年頃より提唱されはじめた歴史ある仮説です。
現在の統合失調症の治療薬(抗精神病薬)は全てドーパミンのはたらきをブロックする作用を持っており、このドーパミン仮説に基づいて作られています。抗精神病薬は統合失調症に対して明らかに効果がありますので、ドーパミン仮説が統合失調症の原因の1つであることには間違いはないでしょう。
しかしドーパミン仮説には限界もあります。
ドーパミン仮説は、幻覚・妄想といった陽性症状に対しては、とてもよく説明がつく仮説です。実際、ドーパミンのはたらきをブロックする抗精神病薬は、陽性症状に対しては非常に良く効きます。
しかし抗精神病薬は陰性症状や認知機能障害(記憶・注意・判断力の低下、実行機能の低下など)に対しては、あまり効きません。これらの症状をドーパミン仮説だけで説明することは無理があります。
ここから考えると、ドーパミン仮説というのは統合失調症の原因として間違ってはいないが、原因の一部でしかないのではないかと考えられます。恐らく陽性症状は、かなりの部分がドーパミン仮説で説明がつくため、主にドーパミン仮説の機序で生じているのでしょう。
しかしそれ以外の症状は別の機序も大きく関係している事が推測されます。
ドーパミン仮説と比べると、グルタミン酸仮説というのは陽性症状のみならず、陰性症状や認知機能障害などに対しても説明がつく仮説です。実際、先ほど紹介したPCP乱用患者さんは、幻覚妄想といった陽性症状だけでなく、陰性症状や認知機能障害も発症していた事が報告されています。
そのため、グルタミン酸仮説はドーパミン仮説よりも、より統合失調症の原因に近づいている仮説だと考えられます。
これはドーパミン仮説が間違っているという事にはなりません。そもそもドーパミンとグルタミン酸はお互いに深く関連している物質であり、グルタミン酸はドーパミンを分泌する神経を制御するはたらきもあります。
グルタミン酸仮説はドーパミン仮説を含んだ、より広い仮説であると考えられています。